リチャード・ハリス(Richard Harris, 1930年10月1日 - 2002年10月25日)は、アイルランドの俳優。また、歌手としても知られ、1968年に発表した「マッカーサー・パーク」は全米2位、全英4位を記録した。
アイルランドのリムリック生まれ。息子のジェイミー・ハリスとジャレッド・ハリスも俳優になった。弟のダーモットはカサンドラ・ハリスの元夫である。姪のアナベル・ウォーリスも女優。
人物
前歴
アイルランド自由国リムリック市のカトリック系住民であるハリス家に、9人兄弟の5人目として生まれる。父はイヴァン・ジョン・ハリス、母はミルドレッド・ジョセフィン・ハーティ・ハリスと記録されている。幼少期にイエズス会の寄宿学校に送られ、学校ではスポーツに才能を示してラグビー選手として活躍した。一時はプロチームのギャリーオーウェン・フットボール・クラブに参加を許されたが、結核を患ったことでプロ選手への道は諦めなければならなくなった。それからもフットボールの熱烈なファンであり続け、役者として成功した後も熱心に試合観戦を続けていたという。
結核治療を終えた後、次の道を模索しながら日々を過ごす中で、映像の世界に携わりたいという想いが高まり、ディレクターとしての経験を積むべく一念発起して隣国イングランドへと移住する。だが、製作過程を専門とする学校がないことを知ると、悩んだ末に少しでも関連する分野ということで演劇学校の入校試験を受けた。24歳の時に王立演劇学校(RADA)の入校試験を受けるが不合格とされ、セントラル演劇学校に至っては年齢制限を理由として門前払いされた。それでも諦めずに学校を探し、やがてロンドン音楽演劇アカデミーの入校許可を得る。アカデミーでは熱心に学び、炭鉱で働きながら稼いだ金で舞台上演を行うなど精力的に活動した。アカデミーの課程を終えると専業の舞台俳優として劇団に参加、長い下積み生活を送った。
俳優デビュー後
1958年に映画デビュー。1963年の『孤独の報酬』ではカンヌ国際映画祭男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞にノミネートされるとハリウッドに進出し、憧れの存在だったカーク・ダグラスの知己を得た。そのダグラスの推薦で大作ミュージカル映画『キャメロット』に主演した。以後、知的さと男臭さを伴わせた演技で『ジャガーノート』、『カサンドラ・クロス』、『ワイルド・ギース』といったアクション映画を中心に活躍した。1980年代に入ってアルコール依存症および薬物依存症から低迷し、映画からは遠ざかるが、それを克服し、以後は舞台を中心に活動を続けた。1981年にはナイトの称号を授かった。
1990年の映画『ザ・フィールド』では、土地に執着する初老の農夫を演じ、『孤独の報酬』以来27年ぶりにアカデミー主演男優賞にノミネートされた。以後、『許されざる者』や『グラディエーター』といった作品で、主に貴重なバイプレーヤーとして再びスクリーンに登場することが増えた。
私生活では2度結婚している。1974年に映画『殺し屋ハリー/華麗なる挑戦』で共演したアン・ターケルと結婚、数本の映画で共演したが、1981年に離婚した。
『ハリー・ポッター』シリーズ
映画化された『ハリー・ポッター』シリーズの1作目と2作目で魔法学校の校長アルバス・ダンブルドアを演じた。2002年にホジキンリンパ腫で死去し、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』が遺作となった。
歌手としての活動
1968年に発表した「マッカーサー・パーク」は全米2位、全英4位を記録した。
1972年には、ロンドン交響楽団とイギリス室内合唱団のアルバム『トミー』に客演した。ロック・シンガーのスティーヴ・ウィンウッド、ロジャー・ダルトリーと歌唱した「ミラー・ボーイ」(Go to the Mirror)はシングル・カットされた。
死後
ダンブルドア役の後任には、家族側はハリスと生涯の友人であったピーター・オトゥールを希望したが、最終的にハリスと同じアイルランド生まれのマイケル・ガンボンが演じた。
2003年には英国インディペンデント映画賞が、ハリスに敬意を表しリチャード・ハリス賞を設立した。
2006年9月30日には、長年計画されていたハリスの等身大銅像がアイルランドに設置された。
主な出演作品
受賞歴
出典
外部リンク
- リチャード・ハリス - allcinema
- Richard Harris - IMDb(英語)
- Richard Harris - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)




