毛利 就禎(もうり なりさだ)は、長州藩一門家老である阿川毛利家の8代。
生涯
延享2年(1745年)、一門家老毛利広漢の長男として生まれる。宝暦4年(1754年)、広漢が藩主毛利重就と対立して処罰され、隠居したため家督を相続することとなる。元服して重就より偏諱を授かり就禎と名乗る。明和2年(1765年)、後潟で38町2反の干潟の開作(干拓)を行う。明和7年(1770年)1月、当職毛利広圓が没し、代わって当職(執政・国家老)となる。安永9年(1780年)、隠居して家督を養子の信任に譲る。享和元年(1801年)11月27日死去。享年57。
脚注
参考文献
- 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
- 小川國治著「毛利重就」



