リーガル千太・万吉(リーガルせんた・まんきち)は、昭和期に活躍した漫才コンビ。
概要
2人共に柳家金語楼一座に属する落語家であった(千太のみ金語楼の弟子でなおかつ金語楼とは同い年)。落語時代の二人の音源は、「ご存知古今東西落語紳士録」に残っている。
結成のきっかけには二説ある。
金語楼は吉本興業の芸人であり、上方・吉本のしゃべくり漫才、横山エンタツ・花菱アチャコの成功を間近で見た。それに触発され、試しにこの2人に高座で掛け合いを演じさせて漫才コンビに仕立てたという説。そして、2人の雑談を面白がった日本コロムビアのディレクターが漫才転向を薦めたという説がある。
1934年に正式に漫才コンビ結成、日本コロムビアの廉価レーベルであるリーガルレコードの専属になり、リーガルの屋号を名乗る。戦時中は敵性語の使用禁止で柳家千太・万吉に暫時改名した。
レコードは売れに売れ、別名義で他社から発売した分も含め吹き込んだSP盤は200枚に達し、東京漫才界の最高を記録。戦後はラジオにも活躍の場を広げ、『やきとり』『ぺり住まい』等の演目を十八番とした。サラリーマン同士の会話のような淡々とした掛け合いを基調とする芸風で、共に落語家出身らしい間と口調は今なお高い評価を得ている。
2008年10月29日、東京漫才を顕彰する“東京漫才の殿堂”への殿堂入りが漫才協会によって発表された。
リーガル千太
リーガル 千太(リーガル せんた、1901年7月2日 - 1980年5月10日)東京都出身、本名:富田 寿。立ち位置は右。
13歳で早稲田の本屋に奉公、年季明け直後にトラブルで今度は別の古本屋に勤める、のちに古本屋が繁盛し社員になる。その頃に寄席通いが長じて1926年9月に柳家金語楼に入門、前座名「金洲」。1930年に日本芸術協会設立で師匠と行動を共にし、「緑朗」に改名。なお、この「緑朗」は現在名跡として六代目柳家小さんが預かっている。
万吉の単独引退に伴い、ピンで漫談をしたり、大江笙子と組んで漫才を再開したりした後、1969年頃に芸能界を引退し、落語協会事務員に転向した。晩年は、東宝演芸場のモギリなども行っていたようだが、自分の弟子である春日三球・照代の真打ち披露興行には列席した。
リーガル万吉
リーガル 万吉(リーガル まんきち、1894年12月12日 - 1967年7月30日)東京都出身、本名:
- 立ち位置は左。明治の末頃から2代目談洲楼燕枝の門で柳亭雀枝、1918年5月に3代目柳家小さんの門で柳家小団治、1925年5月に桂やまとを経て、同年10月に柳家金語楼の門で柳家梧楼を名乗った。落語家の前座時代は端唄や問答などを得意とした。
- 漫才研究会(社団法人漫才協会の前身)会長を務めたが、病気のため1962年10月6日に日比谷公会堂で引退興行し、ひっそりと余生を送った。
受賞
- 1960年(昭和35年) 文部省芸術祭奨励賞受賞『やきとり』
映画
- カミナリお転婆娘(1961年、日活)
- 音楽二十の扉(1948年、大映)
DVD
- 昭和達人芸大全〜笑芸・喜芸・すっとこ芸〜 DVD-BOX(2003年、ポニーキャニオン、JANコード 4988013472501)
弟子
- リーガル天才・秀才
- 春日三球
- ハウゼ畦元(千太の弟子)
関連項目
- 漫才師一覧
- 日本お笑い史
- おぎやはぎ - プロダクション人力舎所属のお笑いコンビ。2002年にM-1グランプリの決勝で漫才を披露した際、審査員の立川談志から「(リーガル)千太・万吉を思わせるような‥」とコメントされた事がある(しかし、直後にメンバーの矢作兼に「ちょっと千太・万吉さんを知らないのですが‥」と困惑されてしまっていた)。
脚注
出典
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 4-582-12612-X
- お笑いの復権
外部リンク
- リーガル千太・万吉 - 漫才協会




