山崎 正之(やまざき まさゆき、1938年6月18日 - 1991年11月20日)は、埼玉県出身のプロ野球選手(投手、外野手)。

来歴

1938年埼玉県に生まれる。法政第一高校では、1956年夏の甲子園都予選で準々決勝に進むが、エース並木輝男を擁する日大三高に敗退。卒業後は法政大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、4年生時の1960年春季リーグにおいて、1年下の新山彰忠と投の二本柱を組んで優勝を飾り、自身もベストナインに選ばれた。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で同志社大のエース山尾孝雄に投げ勝ち、法大の初優勝に貢献。リーグ通算36試合12勝8敗、防御率2.50、87奪三振。同期に捕手の鈴木孝雄、一塁手の田中和男、外野手の山本一義がいる。

卒業後の1961年に読売ジャイアンツへ入団。1年目から、先発・リリーフでフル回転した。一軍では40試合に登板、5月からは先発としても起用され、9勝を挙げた。巨人はV9時代の前で、エースの藤田元司が全盛期を過ぎていたなど、投手陣が手薄だったことも活躍につながった。しかし同年9月には故障もあって先発を外れ、南海ホークスとの日本シリーズにも登板できなかった。翌1962年は0勝に終わるが、5月27日のイースタン・リーグの対大洋ホエールズ戦では完全試合を達成している。

1963年から得意な打撃を生かして外野手に転向。国松彰、坂崎一彦らの控えとして起用されたが、7月から14試合に先発出場、またしばしば代打本塁打も打った。同年の西鉄ライオンズとの日本シリーズでは第1戦から5試合に左翼手として先発。第1戦では、この試合完投勝ちの稲尾和久から、9回表に一矢を報いる本塁打を放つ。シリーズ通算16打数3安打2打点を記録し、チーム日本一に寄与した。

1965年に吉田勝豊・安藤元博・石原碩夫との交換で池沢義行・坂崎一彦とともに東映フライヤーズに移籍。6月までは右翼手として起用されるが、再び投手に戻って7月には4年ぶりの完投勝利を挙げるなど、シーズンでは3勝を記録する。しかし、翌1966年は出場機会がなく、同年限りで引退。

引退後は実業家(衣料品チェーン店経営)に転進し成功した。1991年11月20日に脳卒中のため急死。

詳細情報

年度別投手成績

年度別打撃成績

背番号

  • 17(1961年 - 1962年、1966年)
  • 38(1963年 - 1964年)
  • 9(1965年)

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 埼玉県出身の人物一覧
  • 法政大学の人物一覧
  • 読売ジャイアンツの選手一覧
  • 北海道日本ハムファイターズの選手一覧

外部リンク

  • 個人年度別成績 山崎正之 - NPB.jp 日本野球機構

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